2010年 08月 15日

陸奥新報 のれそれカッフェ その7

「表現をカワス」


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 「一を聞いて十を知る」とよく聞きます。これは聞く側の聡明な理解力をさします。でもその一を語る側から捉えるとまた別な意味になりそうです。ひとつの表現で相手に多くのことを感じさせる。一を語ってその十倍の何かを相手に想起させるということです。十を知りえる聡明さもあるいはその一を語る者の表現力に因っているのかもしれません。
 毎年母の日に妹から届く蘭の鉢。母は毎朝その花に言葉をかけているようです。植物相手に老人の独り言はなんだか心配な気持ちにさせられます。でも蘭は今日も元気に蕾を膨らませて花を咲かせています。言葉の魔法だと思いたいですね。優しく話しかけた効果です。或は品種改良の成果かな。
 人間同士だと何をどう言っても伝わらない場合だってあります。表現力の不足だけとも限らないです。話し方から話題センスや人心操縦術まで、その手の対人ハウツー本が書店に平積みしてある光景をみていると「誰でもそうした本を読んで実践しているのかな」と背筋が寒くなりました。この猛暑にはいい寒々しさです。
 絵画などにはあまり言葉を要しません。意味を剥奪した言葉を画面に添える作品は見かけますが基本的に深くは言葉に頼らない世界のようです。見る側はタイトルを作品理解の手がかりにします。でもそれもあまりあてになりません。絵画は言葉以外の法則に則って描かれるようです。一を聞いて十を知る者にはきっと一枚の絵が壮大な長編小説のように感じられたり、何回読んでも終わりのないストーリーと映るでしょう。聞く側にすべてを頼った表現ではその力も怪しくなってきました。気持ちを察して欲しいと言葉も少なくうつむいては誤解されるばかりですが、表現なんて構えるとまた無駄に混乱させるばかりかもしれません。
 まずは没交渉からのスタートでしょうか。
 相手を傷つける表現ばかりが増大する現代。その反面で癒しを過剰に提供する現代。癒しばかりにすがる姿も情けないのですが清々しい気持ちを起こさせてくれる表現に出逢いたい気持ちは高望みでしょうか。変貌する時代と共に変化する伝達手段が手の中にあります。その電子機器の性能に心奪われながらも中へ注ぐ囁きも筆談する文字も向こうの相手にはどれほど届いているのでしょうか。不安はその性能に比例して増大します。何も伝えたいことがないというのは哀しいものです。
 最後まで何も伝えられなかった悔しさにペンを置きます。

(陸奥新報「のれそれカッフェ」掲載)
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by aura-21 | 2010-08-15 15:20 | 作品画像


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