2010年 11月 03日
昨日、久しぶりに市街地の書店で本を買った。大澤信亮 著「神的批評」 この日誌でも美術系の作品展を見た後の感想を時々書きこんでいたが、自分は自分の文章を批評とは思っていない。作品が投げかけてくるものを受け取っている自分の側に沸き上がることを書こうとしているだけだし今もそうしようとしている。しかし過去には「批判されている」と受け取った方からの逆批判をいただいた事も事実だ。映画や音楽や本を観たり聴いたり読んだ後の感想を述べるように美術ももっと普通に話題に上るようになった方がいいと思ってのことだが、書かれた個人としてはなかなか「表現者」としての覚悟がまだないのかもしれない。作品は批評されるものだ。批評を拒むものを作品とは呼べない。 こうした批評アレルギーの方々には「神的批評」という文字列だけで「高みからの御神託」なごとき批評と誤解されかねないのではないだろうか。「神的」と「批評」という二重に曲解が生まれそうだ。しかし本文はそういうところにはないようだ。読み込む必要を感じ座右の書に。 さて、文学にも暗い私なのだが、この本の「宮澤賢治の暴力」を読んでなぜだか安心した。安心というか「同じ感想を持つ人がいるんだな」という安心かな。宮澤賢治の文章表現についての部分。 「、、少し作為が入ると途端に何を指しているのかわからない不出来な比喩になる。」 勿論著者の言いたいことはこんな枝葉末節な段落にはないのだが、この「何を指しているのかわからない」という感想は私も宮澤賢治に没頭できない理由のひとつに思っていたからだ重要なポイントに思える。賢治を愛する人が多いのは盛岡に住んでいた時にも、昨年花巻に何度も往復した時にも、間近で感じていたこと。愛するが故の批評の視点でもあるのかもしれない。批評は攻撃し中傷するためにあるものではない。 少し氷解したというか「それでいいんだ」という安心感がこの本を読み始めてその冒頭で与えてもらったこと。 さて、その宮澤賢治の「雨ニモマケズ 」は1931年11月3日に書かれたと推定されている。およそ80年前か。 今日は冷たい雨の降る文化の日となった。 午後から弘前へ。 「ゆぱんき」で遅い昼食に「キノコのハヤシライス」。熱々で美味しい。小鉢はサツマイモのマッシュ。 「田中屋」に寄ってebinaさんsakurabaさんと立ち話。 sakurabaさんには先日の個展で仙台に住む友人に告知してもらいその方が画廊へおみえでした。奇麗な方。感謝。 ところで、、私はクリスマスシーズンにサンタのアルバイトはしておりません(^^!)sakurabaさんの偽情報は楽しすぎます。 ebinaさんは「さっきもらったの」とNHKのアナウンサーさんのサインをみせてくれました。が、私には誰だか判りませんでした。あの似顔絵付きのサイン。「見れば判るよ」とは言っても、、はて、、。 夕暮れが早く、雨まじり。雨の夜道の運転が恐いです。そろそろ雪もちらつくと思うと、運転には注意ね。
by aura-21
| 2010-11-03 22:50
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