AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2004年 09月 18日

土屋展 版画展評

秋晴れ。
かみさんも休みで仕事に送る必要のない朝、寝てたら母の病院の日というのであわてて起きて送っていく。帰りに大和山のバザーを覗く。我々は信者ではないが(信者たちによる奉仕活動で)安く食料などを販売するというのでやってきた。同じ目的で集まった人々で混み合っている。駐車場も混んでて近辺は交通渋滞。魚や野菜を買い込む母。荷物運びの私。




帰ると携帯片手にかみさんは「EGO-WRAPPIN」のコンサートチケットを取りそこねて口惜しそうだった。入手してたら2人で行く予定? ちょっと若者に混じってのライブというのも勇気が要ったことだろうが。11/8の青森クオーターでのチケットは発売と同時にすぐ完売だったようだ。




午後からはかみさんと街へ。「あおもり版画トリエンナーレ2004」をまだ見ていない彼女に付合う。私が1階の入賞作品を見ている間にかみさんは全館を見てきた。向いの喫茶店でお茶。
「どの作品もちょっと…力み過ぎ」「公募展だからしかたないよ」「好きで足を停めるような作品は少なかったわね」「へ~」「あなたのもなんだか落ち着かないし力んでる感じ」「…」「前回の大賞の坂本さんの作品の良さが再認識させられたわ」「そうそう、気負いなく素直に絵がこっちに伝わってくる感じはこの会場の中ではとても理解できたよな」…と、夫婦で美術談義風味。
窓の外から見える会場入口、残念ながら来場者は少なそうだ。



続いて「国際芸術センター青森」へ。土屋公雄展。こちらもかみさん初見なので付合う。「ふ~ん」とか言っておもしろがっている。柱時計は寺山修司とか牧良介のイメージもあるらしい。青森人にはそういう感想もあるかな。「田園に死す」だ。時計の部屋は恐いそうだ。全体として展覧会はおもしろかったと言う。

モダン家具とかユニクロをのぞいて帰宅。





昨日の地元紙夕刊の明鏡欄に「あおもり版画 会場を訪ねて」として「理解不能」とか書かれていたな。ま~それは版画だけに限らず青森におけるその世代/地域の現代美術に対する共通の感想かもな…と思った。高齢になればすべてに保守的になるという訳でもない。年齢だけの問題ではないが(例に出して恐縮だが)斉藤義重さんを初めとして死ぬまで美術と取り組んだ人たちは時代の表現を貪欲に取り込もうと「もがいた」「闘った」「何か新しいことを掴んだ」。
作家と観覧者という違いはあるけれど、美術作品と向き合うというのは疲れる。こむずかしいことも少しは知って感覚も研ぎすましていないと歯がたたない…ということもすこしあるようだ。
見る感覚を研ぐ機会は誰にでも平等に与えられているはずだろう。
作品と向き合うということは自分と向き合うことと同義だ。「理解不能」とは自分と向き合うことを放棄する瞬間の言訳だろう。「解るものを見せろ…」はある種のジャンプ力に付き合える時間と体力がもうないことを宣言しているだけだろうと思う。放棄することは悪いことばかりじゃない。むしろ良い方向へこのジャンプができるチャンスじゃないのか。解らなさと絶えず付合っている私はそう考え感じている。
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by aura-21 | 2004-09-18 23:07 | 展覧会


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