AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2004年 09月 20日

回忌 トリ最終日 美術の非日常?

敬老の日。母は近くの中学校体育館で行われる敬老会へ。すごく大きな紅白饅頭を持ち帰った。夕方のニュースでその模様が放送されていた。いっぱいのお年寄りたち、こんなにもいるとは思わなかった…。
そういえば今日は母に何も敬老なことをしてやっていない。急にこの日だけ優しくするのも見透かされているし。




かみさんは仕事休みながら芝居の稽古で昼過ぎから出かけた。

五拾壹番館で「特別展 13回忌を迎えた牧良介を偲んで -劇団 雪の会の活動を中心に-」を見る。
写真パネルや原稿の展示。私は面識はないし「だびよん劇場」の客としてちょっと見かけたことくらいしかない。かみさんは氏に昔から可愛がってもらったようだ。亡くなってから彼女もその雪の会に入った。彼女には氏の存在は今も大きく思い出の中にあるようだ。





陶による美術作家の小島さんが写真原稿を拙宅まで届けに来てくれる。
10月26日~31日に市内 青森画廊にて小島郁子・首藤 晃・橋本尚恣 三人による展覧会がある。その案内状のための作品写真や評論原稿を準備中。
まだ展覧会名称も未定のままに進めている。各位、よろしく!





今日で「あおもり版画トリエンナーレ2004」の展示も終了したようだ。
拙作も展示してもらったことで、現代版画の抱える問題や(審査の結果ではあるが)アベレージの所在・抽象的作品の多いこと・観客の見方などとの交点でいろいろ考えさせられた。
一般的な視点(というのがどこにあるのかその「一般的」もなんなのか定かではないが)からかなり乖離していると言われればそうかもしれない。版画作家や評論家による出品と審査による閉じられた世界でのお話になったのかもしれない。展覧会を覗き見しても技法のところでつまずくと、本当はその先の「版画とは」に至る入口部分にまでも辿りつけないで終わる。公募展というものはジャンルを限定したものであればあるほど(今回は版画に限定して)先鋭的なところで話される言葉や動向を理解していないと知らない業界のお話みたいなところはあるだろう。専門的なことを垣間見れることのメリットも確かにあるのだが、知ってるはずの「版画」と目の前の「版画」との差…ギャップに面喰らった人が多そうだ。いつまでも黒一色の木版画ばかりでは現代において周回遅れな状態か。これがある種の版画への愛着を裏切られたと思わせたようだ。反発もそこから多くきていそうだ。

わたしにとっては観覧者からの賛同は得られなくとも自らの先鋭に立ち会うことでしかこの先の版画はない…と思い上っている。観光土産品のような悪い意味での伝統版画に凋落することには関りたくない。





美術あるいは芸術が「非日常」的なところにあると勘違いしている人が多いようだ。それはやはり「趣味」に近いものと思っている人たちによるものだろう。
普段生活のための仕事が美術ではない人には、絵も彫刻も版画も現代美術もそれらが飾られている空間も「非日常」であるらしい。日常と非日常の間の皮膜(フィルムのように薄く硬いのか、あるいは霧のように厚いのかは判らないが)を行き来させるような装置が美術かもしれない。「非日常」に行きっぱなしなのが美術ではない。
ディスニ-ランドは非日常を演出しているのではなく日常を忘れさせるところだ。しかしあそこを職場にしているスタッフにとってはやはり日常の場であることに違いはない。美術を職場にしている者にとって…特に作家にとっては、あからさまに美術のある場所こそ日常のど真中である。日常と地続きな場所にこそ美術が置かれることが相応しい。地理的・物理的な位置ではなく、精神的・形而上的位置である。
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by aura-21 | 2004-09-20 23:13 | 展覧会


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