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AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2013年 10月 18日

クラフトとかアートとか

クラフト マーケットをよく見に出かけます。

先日も青森は板柳で開催された「クラフト小径」を見てきました。
町の中を通る小川にそって遊歩道があり、その道にそって幾つもの店舗が並んでいるクラフト展でした。郊外の広い場所で開催されるクラフト市とまた違って、町中を通る遊歩道を使うと「その町の歴史」や知らなかった街の表情と出逢える。視線が近くへも遠くへも行きます。

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それがまたとても面白く感じました。

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12日には花巻市東和町土沢で行われた「アート&クラフト 土澤マーケット」を見ました。
この土沢の街ではアート展から始まって近年ではクラフト マーケットとアートが交互に開催されています。地元の人たちもすっかり慣れたもので、楽しむことを知っています。
地域の活性化にも役立っているそうです。

アート@つちざわ」はこれまでに見ていましたし参加もさせて頂きました。
今回、私は初めてこの土沢の「アート&クラフト 土澤マーケット」をゆっくりと見て歩いたのですが、どのブースもどこか似たような商品内容でちょっと残念な気持ちになりました。
こういったクラフト市場は焼物なら焼物、木工品なら木工品でそのクラフトマンの店主の技術が個性的にも特徴的にも表れるものと思います。今回ここでみるマーケットはどこか手芸的で趣味的でもありました。クラフトと言っても様々種類があるようです。取り組みの違いでしょうか。普通に感じてきたクラフトの創造性がここでは(すべてではありませんが)別なもののように感じました。これは「クラフト展」と「クラフト・マーケット」の意味とか扱いの違いでしょうか。

その家庭的な作品群にたくさんの観客が楽しんでいる様子にいろいろ考えさせられます。
来ているお客さんはみなさん楽しんでいます。
別に際立った職人技に出逢おうということだけがいいわけでもありませんが、そのリサイクル的に身の回りの素材を使ったクラフト作品。その店々には賑わいがあります。お店の人とお客さんとの交流があります。

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マーケットには自作ではなく家にあった収蔵品やコレクションなどを並べて売っているブースもありました。これも骨董市みたいで面白いです。肩肘張らずにフリマのような側面も覘かせています。自作を売るというだけではないようです。
お客様が楽しんでいる様子を思うと、難しいことや特別なものを並べるのではなく、これでいいんだ、、と思ってしまいます。

それはアートの現場でも同じなのではないだろうか、と最近思っています。
作家の独善性で作られたものを「作品」と称し「見せられる」観客。
時に自分の知らない(関係ない)権威をありがたがったり、よく解らないものに「すばらしい」とつい共感させられたり、気をつけないと変なことになってきます(私だけでしょうね)。
「見せるだけ」なら作り手の独断が冴えていいのです。でもまたそれを「売る」となると、もっともっとお客に訴えるものが作品の中に必要になってくることを感じました。
「ART」の「判りにくさ」と「見せる」「売る」の自由度の違い。
再度 それがどういう意味を持つのか…を考えるようになってきました。
小難しくても、解りやすくても、それは「アート」が平和の上に成り立っていればいいのです。背景の平和が少しづつ歪になってきたときに、それまでの普通は普通ではなくなってきそうです。
人が制御できる力や事の限界がみえてきた現代。明日のアートもその居場所が脅かされているように思えてしかたがありません。
難しさを排して、どんどんドメスティックになっていくことも否めない流れのようにも思えます。

そんな背景や空気を最近よく実感します。




私は酷いこと、あるいは間違ったことを書いているかもしれませんね。
同時にもう一度自分の考えをリロードする必要を思います。
弱音であり世迷い事であり錯綜であり間違っていることであって欲しい。
と、深刻に願ってしまった。




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by aura-21 | 2013-10-18 18:28 | 妄想


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