AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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カテゴリ:雑感( 157 )


2017年 04月 20日

桜 そして 「アーサー・ダントと棟方志功」

風はまだ強いです。
桜が咲き始めています。近所の桜並木は三分咲きほどで、この風の強さが気になります。

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黒岩恭介さんから「九州造形短期大学 紀要 第39巻 2017」を戴きました。

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黒岩さんの論文「アーサー・ダントと棟方志功」が掲載されていました。
どうも ありがとうございます。

黒岩さんが青森に在住されていた時期は、青森県立美術館をはじめ、県内美術系施設の幾つかが建設され始動していた施設もあり青森県内のARTの大きなリスタート時期でした。地元在住のアート好きや専門家の顔ぶれがよく集まって勉強会や報告会や飲み会や … と活況の始まる予感充実の時でした。… いろいろあってその黒岩さんも青森から北九州に移られました。

2014年に黒岩さんから御著書「ロマン・オパルカ 無限への歩み」を戴きました。
特殊なその作品と作家オパルカについての論考をまとめた貴重な御本です。(現在 盛岡の友人に貸し出し中です)
今回もこの紀要が届き… 何故? と思い封を開くと
「棟方志功について、紀要に書きました。 読んでけろ」と4月18日付けの便せんが挟んでありました。
 
棟方志功は青森の生んだ国際的な版画家として、ここ青森で版画をしているとどうしても引き合いにだされ、すこし困る存在です。困るというのは、木版画で素晴らしいその仕事も、ここ青森では「木版画」という技法(板目の凸版としての木版画)だけがただ青森のお家芸のように郷土色にまみれて一人歩きしてしまい、棟方志功という孤高の作家の表現にまでは その視線がなかなか及ばず、県人で文化勲章受章者として 盲目的に神棚に祭り上げているような感想を私が持っているからです。
私は志功の作品はアバンギャルドで前衛だと思っています。
今の時代では情報の内容もその伝わり方も重層で多様になり、表現方法にもその影響があり、アートを観る側も膨大な教養と知識と感性と意見をもって観るために、価値観の多様性の中で版画という方法は、すこし古く見えてしまうのかもしれません。しかし、表現の原動力としてある創造性というのはいつも変わらなくあり、棟方の版画もその時代の人間の格闘の素晴らしい痕跡として見え、その時代の中で新しいことに挑戦した芸術家の熱情を感じます。

…閑話休題

黒岩さんの論文「アーサー・ダントと棟方志功」…
「2013年に89歳で亡くなったアメリカの哲学者で、美術批評家のアーサー・ダントが棟方志功(1903-1975)についての作品論や交友関係を綴ったエッセイが存在することは、あまり知られていないかもしれない。…」という書きだしから引用と黒岩さんの論考を交えた短い論文ですが、また新鮮な「志功」が発見できました。
全文引用(転載)できませんが、書かれていることから、新しい「志功観」とでもいうものを夢想のように思い描きました。


黒岩さま どうもありがとうございます。




 


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by aura-21 | 2017-04-20 12:44 | 雑感
2012年 07月 18日

夕陽


みてしまうのです。

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ご近所の建物のシルエットの向こうに沈む。

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by aura-21 | 2012-07-18 22:22 | 雑感
2012年 05月 23日

雲の情

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仕事の手を止めて窓の外を見る。いつものように空の遠くで雲が奇妙な形で流れている。
いつも空を見上げて監視している訳ではないから、気づかない時にもっと奇跡的な表情をしてみせているかもしれない。しかし、だれにも見られないで形を変えていく。
空は自意識過剰に「見て見て見てっ」とも言わず何事もなく次の風に押し流され形を変える。
あえてキャプションを付ける程の形でもない今日の雲。どちらかと言えば「ふつう」に空と雲が街並の電線にトリミングされて在る。ただ在る。その普通なこと。
今日初めてで、今後にはきっと同じには現れない空の今日の仕事だろうか。

自分の仕事の順調さ、普通さはこの雲ほどの起伏を描いてはいないだろう。
見上げるように、明日に期待して窓を閉じる。







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by aura-21 | 2012-05-23 23:23 | 雑感
2011年 12月 20日

実験

夜も遅くなってからが調子出る。



細かい仕事になってきた。
頭の中だけで組み立てたことは実行に移すといろいろ気づかない問題に出くわす。
そこからが面白いのだ。「考えていたこと」と「現実」は違うと挫折することがよくある。思い描いていたことは実際にやってみると違うものだ。技術的なことはそんなには食い違わない(というか、なんとか別な方法も探れる)が、表現として「思ったほどの成果はなかった」ということは毎回あるのではないだろうか。成果といえるものにすぐいい悪いの判断を下すのも、見定められない様々な要素がまだまだあってこれからも新しく出てきそうで、完全に断ち切れはしない。「実験」というと聞こえはいいがそうではない類のように感じている。制作をルーチン仕事と捉えずに、自作品に今までやった事のないことや新しい素材を組み入れる時には、あらかじめ見えている成果よりもまずやってみる将来的手探りが予断を突き抜けてあると続けることを後押しされる。そんな実験は毎回あるのかもしれない。
誰にも言わずにコツコツと時間をかける未表出の実験であるといいのだが、いつもその実験をどうにも我慢できず突然に展示出品してしまう思慮や我慢のない自分がイケナイのだ。反省点。
展示した時に自分が一番おもしろがっているというのも恥ずかしいのだが、実際にはそういうことの方が多い、というかほぼ毎回がそうなのだ。






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by aura-21 | 2011-12-20 23:00 | 雑感
2011年 11月 30日

なんだっけ

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どこで、いつ撮ったのか分らない画像だが、なんだか今の気分はこんな夕景。
黄昏たすぐむこうに師走が見えて、なにもかもがあの雲のむこうがわ。


いろいろ記しておきたいこともあるが、どこまでをどう書いていいものかが掴めない。
そのまま放置しているうちに、書きたい気持ちが萎えてどうでもよくなる。

「なんだったっけ」

忘却したことすらも忘れてしまえば苦労はないが、喪失感でぽっかりと空白部分のあることだけは認識できているので始末に悪い。


隣家の伯母がお茶を飲みに訪ねて来て、滔々とはるか昔のことを取り留めもなく語る。
こちらが聞いているかどうかには関係ない。途切れなく話す。
横で一緒に聞いている母の顔色から推察して、真実と違うのではないかと思える節も多々あるのだが、語ることは伯母にとりすべて事実になる。
事実と真実の差はなんだろうか。
「真実なんてどこにもない、あるのは解釈だけ」
語っているうちに伯母のなかでその解釈(物語)は現実のことになってしまうようだ。
伯母だけに限らず、誰の中ででも架空の断片が(断片ではなく大きな総体となって)人生を形作っていることに違いないようだ。



昨夕、同級生の尊父の葬儀に参列。
式で彼の父親の戦友という方が故人を偲んで弔辞を語った。
故人自ら志願して航空隊に所属し外地で戦った話。敗戦後の処遇とその理不尽さは、彼らが共有している「戦争体験」だろう。戦争の体験は空襲を受けた側の話ばかりを聞いてきたように思う。戦地に赴いた者ほど、敗戦後に多くを語らないデリケートなものかもしれない。
私が知る故人の印象は物静かな優しさよりほかない。読経後の僧侶の話よりも、朴訥に時に聴き取りにくい戦友の話ぶりに、葬送の別れにふさわしい威厳が漂った。






また雪がちらついて来た。







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by aura-21 | 2011-11-30 16:51 | 雑感
2011年 10月 18日

埋め合わせ

目に見える世界の中の何かを写し取っているわけではない。
目には見えないこともきっとアートはえぐり出すものだろうと思う。
感じること。その一端で視覚にも触覚にも聴覚にも頼り、時に味覚や臭覚や第六感も総動員して。

終わりのない作業が待っている。


(ツイートで事足りそうな文字数)




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by aura-21 | 2011-10-18 22:22 | 雑感
2011年 09月 17日

厳重注意

早朝4時半ころか、長い揺れに目が覚めた。
また地震だ。しばらくぶりの大きく長い揺れ。ラジオを付けると震源は岩手の内陸のようだ。
昨日逢った戸村さんはじめ 多くの友人が住む盛岡。心配。



10時前。母を眼科へ送り、待つ間にN川河口へ行って車を停め、途中で買ってきたコンビニのカフェラテを車内で飲んでいた。
助手席側の窓から陸奥湾ののどかな海がみえる。
この場所は借りている倉庫と川を挟んで対岸にあたり、この道をもう少し先へ行くと漁船などが停泊した小さな港がある。海産物の加工所もあるようだ。

しばらくすると私の右側をパトカーが港の方へゆっくりと走り去った。パトロールか。しばらくして戻ってきたそのパトカーが私の車の近くで止まった。その中から厚い胸板のベストの重装備な県警察官3名が降りてきて私の方へと近づく。
「すいません。ちょっといいですか」と職務質問が始まった。
海と反対側の空き地には古タイヤや不燃ゴミが山積みになっている。

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土地所有者が仕事でタイヤを大量に置いているのだろうか。しかしその側に不法投棄の「警告」という立て札がみえる。その立て札を指して「ここに不法でゴミを捨ててゆく人がいるので、、、」と警邏目的を言いながら「ちょっとお車の中を拝見していいですか」
と、降りた3人の中のリーダー格の若い警官が言う。
わたしは不法投棄にここへ来たわけでもないし、車内にゴミも隠し持っていない。まぁ車内は汚いけれど。
簡単にササッと見て終わるのだろうと思って軽く了承する。
パトカーを運転していたもうひとりの警官だけは車から降りずそのまま私の車の後ろにパトカーを廻して停めた。
「降りてもらえますか」と言われて車を降りる私。
お仕事は? に「絵を描いています」と苦笑しながら答え、、これって仕事になっているかなぁ、、と口には出さずにそっと思う。
「海の風景などを描くのにここへ見に来てるんですか?」
「…いえ、私は抽象なので…」なんだかとんちんかんな受け答え。

「ちょっと服の上から触っていいですか」とその警官リーダー。
「最近ナイフを隠し持っている人がいるので」
なんか厭な感じである。最初はゴミの不法投棄で始まった話が変化してきている。
ぼんやり海を見ていただけの私には別にやましいことはないのだが。イヤな感じである。
何らかの先入観で対処されているようだし、その先入観には個人を越えた組織的な威圧感を感じる。

「どうぞ」と両手を拡げてみせる。

私の風体は異様かなぁ?  或はちょっとユニーク?、、、といえば良心的な見解か。
まぁ自由業なので着の身着のままだ。膝の穴を継ぎ当てしたジーパンに上は作務衣である。その作務衣も左肩だけ古い藍染めの刺し子の布を当てている。友人の骨董屋で買った古布である。髪の毛はもう7年くらい切らずに伸ばしている。きっと県内の50代男性の中では2番目くらいに長く伸ばして(一番目が誰かは知らないけれど)そしてヒゲヅラに眼鏡である。
一言で言うと「怪しいだろうな」というのは自分でも分っているのだが、実際に警察官3人に囲まれて職質されると、その風貌に社会通念上の役割のようなものが付与されてくる。
わたしはモノ作りのひとりとして制作を介して「先入観」とか「固定観念」とか「差別」といか「偏見」と密かに戦っているつもりである。ここでも自身の容姿から何かを決めつけられ探られるのは解せないが極力彼らに協力しているつもりだ。まぁ、ここで事を荒立てる理由もないし、むしろ早く終わってほしいという諦めムード。ここで断ったり拒否したりすると公務執行妨害とか言われて待機しているあのパトカーの後部座席に警官に挟まれて乗ることになるのかなぁ、、これは想像www

「車内も拝見していいですか」その物言いは至って礼儀正しくしようと勤めているふうである。
「了解を頂けないと後から何かなくなってもいけないので」と話す。
たいしたものは載せていない。まして見られてまずいものもない。どうぞ
ハッチバックを開ける。私が開けるのを待ってからそのリーダー格の警官がひとり覗く。あとの2名はまだ成り立ての警官だろうか。ひとりはメモをとりながら。もうひとりは黙って立って見ている。こうした場合のチームの役割分担があるようだ。若手の実地教習もあるのだろうか? 私はちょうどいいパトロールの研修マルタイであり、あわよくば彼らにとって何か成果を産むモルモットだろうか。

後部には2つの書類鞄が載せたままである。だらしない。
「鞄を開けていいですか」と言われ。断る理由もない。
私宛の大型封筒なども入っていてその宛名をみて「橋本さんですか」と訊く。…はい、私です。
まぁ、困るものもないだろうな、、、と思っていたら、荷物をかき分けて折りたたみ後部シートの隙間に嵌まり込むようにあった30cm程の長さのバールを見つけた。
「これはあなたのですか?」と車から持ち出した。…はい。
何をするために積んでいるのか?と訝しがられる。
この冬に何度もスタックして動けなかった時があり、氷を割るために載せた、、、とおぼろげな記憶しかない。いたってあやふやなのだ。
「これはシャッターやドアをこじ開ける機能があるものですね」
(はぁ? 私がそんなことをするように見えるのか?、、、)
警官の語気が急に強く聞こえる。泥棒する道具になるという指摘に驚いた。
道具はその持ち主の意志によりその機能が生まれる。決めつけるような判断(判断と言えるのか?)だ。「主なき鎚」Le marteau sans maître という語彙が浮かぶ。
証拠物件を見つけて勢いづいた警官はそのバールを手にとり
「これは記録させてもらいます」
とパトカーの方へ持ってゆく。最近の鋼鉄製のしなやかなバールではなく、工事業だった父の道具箱にあったもの。錆びた鉄の棒だ。この不格好で使い勝手の悪い代物は釘の頭も引っ掛からないだろう。確かに凶器と呼べそうだが、道具は持ち主によって意味が生まれる、、、とは思っても警官にはそんなことは関係なさそうだ。
私がこのバールを使って他人の家のシャターやドアを壊してこじ開ける人間と決めつけられたなんて、想像もしていなかった。性善説と性悪説というのがあるが、彼らは性悪説に従って行動しているのだろう。性善説で行動し事件を解決するのは純情派とか人情派とかテレビの中だけのこと。
不法投棄の看板から始まった持ち物検査は簡単に済まない方向へ行く。

助手席の鞄も開けられて覗かれた。もちろん見られて困るようなものはない。先を尖らせた鉛筆だって相手に突き立てれば立派な凶器だろうが、そういう方向への想像は私だけのようだ。ペンケースの中にはカッターも入っているのだがそちらは見ていないでモルスキンの厚いカバーのノートの方に関心が向いたようで鞄から取り出していた。さすがに書かれたノートの中までは拡げない。

免許証を見せて下さい。
バール1本でもう犯罪の証拠は見つかったのか。言いなり状態。オレは何もやってない!
「今回、このようなバールが発見されたので『厳重注意』ということで」と言われて何か賞罰の項目に×でも付けられるのだろうか? 前科1犯となったのか、、、と、トホホ気分。そして厭な気分。
どんどん犯罪者に仕立てられてゆくようだ。これだと世に聞く「冤罪」というのも簡単に押しつけられそうだ。性悪説という偏りを持った集団であるといえなくもない。
「靴の裏側を見せてください」に一瞬「?」
先ほどからメモ担当の新米っぽい警官が私の靴底を簡単にスケッチしている。あまりに簡単すぎて「それではデータにならないだろうな」と気の毒になるが、、これもすべて研修コースの段取りポーズだろうか?『お前の足跡はこっちでしっかり記録したからな、、、』的な。
『犯行現場に残された靴跡にあなたの靴跡(刑事ドラマでみたが「ゲソコン」というらしい)がフィットしたらすぐ逮捕に伺います、、、的な。
「サイズはいくつですか?」という質問に何故だかオドオドと答えている自分が哀しい。これでは簡単に犯罪者に仕立てられそうな空気。
事を荒らだてないのが信条である。
しかしこの調子だと本当に「えん罪」に巻き込まれかねない私であるな、とつくづく想像してしまう。

まぁ、、、厳重注意だ。、、、が、、厳重注意って何だ?

3人の警官に取り巻かれて職質にあっている間も、そばをゆっくりと通り過ぎる車から私よりも怪しそうなおっさんが好奇の眼をこちらに向けている。私の姿は逮捕寸前の泥棒状態。世間の眼に晒されて嫌になるよ。警官のそのむこうに色眼鏡な世間の眼がある。何が色眼鏡なのか?それは分らないが、何かの基準、それが正義の司法なのかもよくワカラナイけれど、そういったものは自分がどちらに味方するかで変わってくる。
「追跡!青森県警24時」のテレビ番組を見ていると、どっちを応援しているのか、自分。
悪は許さない的な正義感に溢れたナレーションに知らず知らず細かない経緯をすっ飛ばして警察の応援席から見ている。


私が泥棒か傷害の被害者になった場合には、彼ら警官の捜査に「どんな手を使っても犯人探して仇を取って下さい」と思ってしまうが、逆に犯人であるかのような眼で身体検査や職務質問される側になると、「厭〜なもの」だ。
当方の身が潔白であっても、何かが出たら追求され記録されるのだ。
今回は忘れてて載せっぱなし(横着者です)だったバール1本から厳重注意された。
しかし職務質問した以上は「成果なしには絶対に終わらせない」という感じが、ないわけでもないのではないか?

まぁ、私は身ぐるみを剥がされたような感覚になって、彼らの引き揚げた路上にぽつんと取り残された。近所のおっさんが一人、遠巻きに「連行されなかった」のを残念そうに見ている、、、ように感じるのは何だろう。

まぁ、とにかく「頑張れ!! 青森県警!」である。






病院で母をピックアップして駅前方面の眼鏡店へ。
眼鏡の処方箋をかいてもらった母に付合い。眼鏡を作る1時間ほどの間に昼食。チャンドラ2階へ。
私の格好は職質された時と変わらない怪しい普段着。チャンドラ店内ではピアノの生演奏中。
フロアースタッフもスーツにネクタイ。その格好はお客よりも品があって、なんだかこちらは哀しいよ。店を選び間違えたかな。ランチを注文。

眼鏡店へ戻る。母と店員の応対中に店内をプラプラ見て歩いて気になった眼鏡フレームを発見。また丸いめがね。
レンズも入れて作ってもらうことにした。そこからまた1時間ほどの待ち時間。


駅前広場の「B-1グランプリ」のサテライト会場でtさんが着ぐるみで出没する情報を聞いていて行ってみた。小雨がぱらつきだしてちょっと悲しい天候状態。そしてtさんも見つけられず。まだ早かったのかな。
美味そうなB-1料理のブースが列ぶ。ランチ後でお腹いっぱい状態で食えない。残念だ。


アウガの図書館へ。
エレベータから流れるアナウンス「五階です」が「誤解です」に聞こえる。
それは警察に向っての我が内なる声だ、、、まだ引きずっている。トラウマか。


眼鏡店へ戻り新しい眼鏡をかけても、見えてる世間はそんなに変化ない。
世間は変わらず、かけている眼鏡でピントが合い少しは色付けられるとはいうものの、昨今は世界観や人生観が突如変わるようなことが連続しているこの日本。しっかり真実をみるために視界も視力も調整しておく必要がある。




夜、木版の摺り。何百枚か。






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by aura-21 | 2011-09-17 22:22 | 雑感
2011年 08月 17日

会話する

雨。残暑のあるけれどこの雨で秋の気配がすっかり深まった。
ねぶた祭も終わって青森はもう秋だね。



額装。8点ほど。
そろそろ気持ちに焦りもくすぶりだした感じ。
いつもだな、、そういうの。


帰りに図書館へ寄り本を借りる。
読みたい本だが、なかなか読破しない。読みかけの本ばかりが手の届く範囲に乱雑に散らかっている。
乱雑さはそのまま心の中の荒れた気配に繋がっているようだ。

ジターヌに寄ってエスプレッソ。その後にシナモン入りのアイスコーヒーをテースティング。
美味しいね。ありがとう。


ほんの数分でも交わす会話。家での会話は脳みそを使わない。戸外での家族以外との会話には眠らせていた脳内の作業をもう一度自覚させてくれる。対し方や姿勢の問題もある。言葉が通じる筈というのは思い込みであり危険なんだ。言いたいことはどんなに瑣末なことであっても惰性的に口外するべきではなく、もっと真摯に脳内や感情の回路を通過させる必要を感じる。それは技巧的に騙したり偽るための回線ではなく、自身の身体性の中で言葉を使うことも重要なエレメントであること。体力のなかに言葉を綴り相手に届けることも、回復しようとしていること。
何かを突きつけられる。なのだ。







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by aura-21 | 2011-08-17 23:45 | 雑感
2011年 07月 20日

味 サイト

今日は少し風が流れている。でも日差しはきついね。

昼飯を作る気力無く、中華のKでラーメン&半チャーハン。
2回目かな、ここ入ったの。実はあまりここの味を美味しいとは思っていない。
丁度、目の前にあって安くていいかなと飛び込んだ。
学生のときからあまり味なんて気にしない方。空腹を満たすだけで十分だった。
金が無くなって近所の原っぱで雑草を摘んでフライにして食ったが、ニガくてさすがに食えたものじゃなかった思い出。
飽食の時代なんだな。こんな自分でも「まずい」なんて思うなんて。
店内は明るくて、店員さんも親切で気持ちがいい店だった。


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誰もが「つぶやく」時代になった。
それだけでネットに参加している気分は十分に満たされる。というか段々とネットとのつきあう方法や距離感が分ってきたのか。時流に乗るだけでも知らないと出来ないことが多くて困るのだが。
拙作サイトに加えたままでしばらくチェックを怠っていたリンク集を確認すると、もう移転して見つからなかったり更新がしばらく滞っているサイトもずいぶんとあるものだ。
多くはつぶやき系やFBなどに乗り換えたのかな。
この数年で個人のサイト管理というのが飽きられたり惰性的だったりしてきたのかもしれない。あるいは自分にとっての必要性やその効果の幽かさに気づくのかもしれない。誰も読んでくれないならばSNS系で知り合うコアな友人内での交流だけで十分な気もするのかもしれない。
ブログからSNS系のコミュになりツイッターへの流れだろうか。
全部を継続していくよりもすいすいと乗り換えてゆくのが得策(省エネ)にも感じている。


この日誌(ブログ)もエキサイトの無料提供のもの。
更新も慣れると容易に簡単。画像も挙げれて必要な機能は十分だ。動画も大丈夫。
携帯端末からの更新を私はしていないが、ブログもツイッターもそこからが主流だろう。
発信局がいっぱいあって、その全てが移動状態にある。
歩きながら考えてすぐに言葉や画像にして発信(放送)している。
受動者側だけに廻っているとこれらの機能が十分に享受できない立場だったりしていなか。
落ち着いてきたというよりも、観なくてもいいことに気づいたようだ。
更新スピードが落ちて鮮度が落ちると、欲しいもの・観たいものというのは新しさではなく基本的なもの、スタンダードなものになってきてはいないだろうか。





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by aura-21 | 2011-07-20 23:20 | 雑感
2011年 07月 09日

再起動 時代

室温は何℃あるだろう。
仕事部屋が暑くて額から伝わった汗があごからぽたりと紙の上に落ちる。

昨日までに引っ掻いた版を刷る。6点。

それでも全部は刷りきれずに明日にまわす。
明日出来ることは今日しない。誰かが言った言葉。
だが、昨日しないことはきっと明日もしないだろう。私は言う。

使っていなかった筋肉、自分の手が他人のもののようで手こずる。
同じように使っていなかった神経組織も勘を取り戻すのに躍起となっている。
毎回が「再起動」。


8月の二人展のための助走。案内状に使う作品の画像。
そして「北奥氣圈 第7号」のためのカットの準備も。
前回の第6号からもう9ヶ月が経つんですね。発行までには、まだもう少しお待ちください。




制作途中に抜け出して市街へ。
市民美術展示館で「あおもり国展」を観る。数名の知人が参加している。

いわゆる団体展らしい作品というのがある。群雄割拠に並列された中で目立つ力技。
構成されている作家個々の世代が抱えている時代がかいま見れる。
そこに彼ら個々人の青春時代に追い求めた形体への精神的供物が横たわっている。
同館の他のフロアーでもグループ展。そこでも作家が抱えもってしまった時代という拘束に殉じた視点が色濃く見える。表現である以上は視点には技法を以て作り上げた視座があるわけで、現代とは違ったもの、過去のものも見えてあるように感じる。100年後に見たらきっと20〜50年の時代差なんてさしたる違いもないだろうし、大雑把に当時の青森に於ける「現代美術」という評価を着けられるのだろうか。

現代美術も10年サイクル程で世代交代が繰り返されるここ日本。アートシーンでスポットライトの当たる範囲は狭く替わりやすい。特種な国だと最近になって思う。10年前や20年前や30年前の「現代美術」もどこか古びて感じる。当時は時代の寵児のように取り上げられた作家も「今はどこでどうしているのか」。消息不明というよりも徐々にフェードアウト。あるいは大学などに職を求め後進指導についているのだろう。こうして繰り返されるのが美術シーンであるとしたら現在注目されている作家も今後10年経ってもまだ作品を作り続けられているのだろうか。どういう仕事(制作)をしているのだろう。彼らもまた次世代からどういう作品解釈をされているのだろう。
美術の進歩が何を指すのかは判らないが、そこにはきっと表層的な流行以外の何かがあって変革され維持されているはづの手応えがあるだろう。在ってほしい。時代(時間)や空間(地域)を突き抜けた美術こそ感動を以て受け入れられると思うのだが、口で言う程に簡単ではない。「現代美術」として関われる世代の幅も狭いような気がしている。
私は既に現代美術ではなく「美術」に殉じたいと思っている。のだが、。


そうそう、青森県美では
青森県立美術館開館5周年記念 光を描く 印象派展-美術館が解いた謎-」が始まったようだ。
そこに並ぶ作品は時代をつき抜け得たのか。実のところ私にはワカラナイ。
もう百年経ったら解るのだろうか。。。もう変わらないのか



夕食後に温泉へ。

帰宅してまた仕事部屋へ。そしてまた汗。なんのための温泉だったのか。
最後に刷ろうとした版が大失敗に終わり気分がめげる。やめやめ、、、
残りは明日にしよう。マッコリ飲んで寝ます。






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by aura-21 | 2011-07-09 23:23 | 雑感