AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2010年 01月 29日

エロス オルタナティブ 情報

北海道在住の親戚の訃報。献花と弔電の手配。
現地には伺えない。ご冥福をお祈り申し上げます。



昼過ぎ弘前へ。
鳴海要陶芸記念館で開催中の「生命・遊び・アート エロス展」へ。
弘前・津軽地域を活動拠点とした在住作家10名の作品展。
絵画、糸鋸工芸、銅版画、陶芸、映像、デザイン、舞踏 等々と多彩なメンバー。
空間に対して作品量が多くて盛り込み過剰にも感じる。
考現学的な写真を撮っていて一度田中屋画廊でその膨大な資料展をみせてもらった對馬さん。今回は彼の油彩を初めて観せてもらった。何か思い出の風景のようにジワジワとこちら側に伝わってくるのが心地いい油彩。画肌のヌメリ感、視線がまとわりつく感じがして「そういうエロスもあるねぇ」と。
 


夕方、遅れて「アート井戸端会議」へ。駅前にある青森文化ホール。
国際芸術センター青森に新しく着任した学芸員の服部浩之さんの発表。
オルタナティブ考  ローカルな場所で起こる同時多発的な、あるいはネットワーク化された出来事などなどについて

画廊や美術館以外の場所でグループ的に興るこうした動きは(規模の大小、企画の良悪はあるが)アート的にも以前からあった形だろう。しかしネットによる伝達手段の普及やパーソナル化にともなって、その存在が披瀝されたり具体的な内容情報が紹介・報告されたり特殊性も加味され加速がつき新たな興味もわきだす。またそうした人の集まれる「場所」があることで自然発生的に展開する生態は興味深い。やはり「理念より場所」ということもあるのかもしれないし理念も素直胃に掲げていればもっと強い。
活動している情報が広がることでその意味が大きく飛躍する。自由でフレキシブルに動けることを最大限に利用した活動は美術の解釈の拡大や、むしろ美術にすら限定されずに発想したプランや目的の実現へとこだわれりながら突き進む。こうした一見アートであるなしに関係なく展開される企画には関心が大きく向く。
ここで「アートとは」とか「これはアートなのか」という問はあまり意味を持たないのかもしれないな、と感じる。
誰にも知られず行なうこととは違い、企画の情報を(ネットで)流して仲間を募り、時差少なく共時的に活動し報告と体験を共有しながら運動するのは目的の面白さや構想に気付き着火すれば実感として非常にやりがいの大きいものがあることを追体験させてくれるお話がうかがえた。
もちろん(世代だろうか)、そんなにも「熱く」ならずクールであることも当世流な作法を感じさせられる。
遊ぶことに真摯である。


さて、、、、私のようなおじさん世代ではもうそうした企画への主体的参加は身体や頭が重くて思うように付いてゆけず踏み込めない。自己抑制のようなものも感じてしまう。困った。
おじさんはその殻を破ることに疲れているのだろう。あるいは新しいものへ飛び込む勇気よりも気力を出すのがめんどくさい。

打ち上げ。しばらくぶりに某居酒屋へ。先代が亡くなり若いマスターが後を継いで営業している。ビールは自由に自給システム。しかし前には新鮮なお刺身のおとおしが付いたし、自由に盛れる料理もその皿が小さくなっていた。
雪がシンシンと降り出す中を井戸端では珍しく二次会へ。
よく行く文具店の入った建物のその奥にあり前から気になっていた店。初めて入る。
ワインにトースト。深夜1時半、同方向相乗りでタクシーにて帰宅。






ネット情報はひとたび何処かに書き込めば世界中どこからでもPCがあればその情報にアクセス可能である、、、という。確かにそうなのだが、、、しかし、それは幻想に近い事も知っている。アクセス可能ではあっても現実にはそんなにセンセーショナルな広がり方や伝わり方はしない。むしろそのほうが正常だし、また、もしパンデミック的に拡散したらノーコントロールに陥ることも目に見えている。意外ではない。この情報過多の時代には読まれにくい情報が多くあるということだ。(送り手側にとって)必要な情報が(送り手側にとって)必要な人のところに一斉に届きリアクションが興ることは希有なことである。情報は受け手側にとって必要性を感じた時にその効力を発揮する。時々予期しないようなところに(予期しない形で)伝わることもあるが、そこには奇妙な誤解も生まれる。
WEB管理やブログをやっているとあたかも「発信者」と評されることがままある。「情報を発信している」ということだけを取り上げられてその内容までは詳しく紹介されにくい。それもなんだか勘違いされてるようで恐い。
情報がある意味で効果的に拡散するためにはネットで発した情報を補完的にも気付かせるためにネット以外の別な情報伝達の手段が必要になってくる。テレビ、新聞、ラジオ、書籍など、既存のメディアはまだまだ強い力を持っている。情報の存在を知らせる情報メディア。
最近はmixiやブログやツイッターも増加傾向だが、それも流行的で過剰期待が絡んでいそうだ(PodcastとかVideocastという音声や画像による情報発信もあったが、最近はどうなっているんだろう)。もちろん情報は双方向でテレビや新聞からの情報側に追従しぶら下がったブログの方が多いのだが双方向に補完しあう。(爆発的な普及が一度沈静化した時から真価が見えるのかもしれない)
ある情報が受信者にとって必要であれば、ねずみ算式に二次・三次的にでも意識が主催者側になってゆくことで成員意識が強まるだろう。日頃から嗜好の共通する交友関係・人間関係の強さが要にあると思う。友達の友達あたりまでが基本的に一番の情報受給者であり主催者賛同につながる人たちではないだろうか。
さて、元々過剰に拡散する必要もないので、子・孫・ひ孫くらいまでの情報伝達がもしあればそれはかなり成果をあげているのだと感じる。後はその周囲の協賛者だろうか。一番いいのは協賛金か。ここが一番難しいかもしれない。人材と資金。
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by aura-21 | 2010-01-29 23:16 | ART
2010年 01月 26日

予防接種

新型インフルエンザの予防接種をしてきた。

もうあの猛威のピークも過ぎて「いまさら」の感じも非常にする。しかし昨年、流行始まりの勢いを思うとパンデミックでスゴかったし恐かった。何がスゴいと感じるかというと「マスク人間」が街中に異常な勢いで湧いて出た事。顎の辺りまですっぽりと人相も表情も見えないように覆い隠した人間があちらこちらを行き交う。人が集まるスーパーやコンビニでは客も店員もしている。そして商業施設の入口には手を消毒する薬剤が置かれている。
この状況は今もあまり変わってはいない。
潜在的にもまだまだ新型インフルエンザの恐さに注意しているのだろう。

この予防接種がどれだけ効果のあるものかは判らないが、3600円分は期待している。
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by aura-21 | 2010-01-26 19:59
2010年 01月 24日

ねぶた研究所

年末恒例の「あかりのありか」展でご一緒しているねぶた師の竹浪比呂央さんが「竹浪比呂央ねぶた研究所」を開設。
今月22日から27日まで「色紙展 - 祝ねぶた研究所開展 -」を開催しています。
夕方にちょっと訪ねてきました。

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外観はご覧のように特徴的。やはり「あかりのありか」で毎回お世話になっている建築家の森内忠大さんの設計。もとはガソリンスタンド。柱と天井をそのまま活かしてのリンベーション。

竹浪さんのところに集う若いネブタ師の研究研鑽の場として、また一部に展示用壁面スペースがあり様々な作品展に利用してもらえることを想定しているそうです。
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by aura-21 | 2010-01-24 23:06
2010年 01月 21日

夕食に

ホワイトシチューを作ろうと野菜などの素材を切った。
あれもこれも、、と、余った野菜をどんどん鍋につぎ込んでいたら溢れてきて大鍋が必要になった。
ホワイトシチューのルーを探したら1箱しかなくとても足りない。
棚の奥を探すと5〜6箱のカレールー買い置きが出てきた。

ホワイトシチューにカレールーも半分混ぜて「カレーシチュー」ができた。


思えばカレーはよく食べたがシチューはカレー程の認知が我家では少ない。
出たての頃にはホワイトシチューは作ってもカレーのようにご飯にかけて食べていたかもしれないな、、と思い出した。
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by aura-21 | 2010-01-21 18:03 |
2010年 01月 10日

県美ギャラリー

青森県立美術館のコミュニティギャラリーを会場にした「心の中の美術館」
何度か版画制作のお手伝いをした「創作工房 ほ・だあちゃ」の参加者による展覧会は「扉のむこう」と題したサブタイトルでも伺えるように彼らにとっての「社会」「人々の中へ」と創作行為を通してその扉を押し広げるような性質をもつものだろう。工房内で創造に関わる行為は社会とどう関わってゆくのかと考えると、けっして彼らだけの問題ではない。美術と社会の関連も重要なテーマではある。そこでは障害を持つ彼らの「世界」と「美術もそのなかに含まれている社会」との関係性も見えてくるようだ。
社会というものの中へ参画する意識のなかに美術というものが手がかりとしてあるのだろうか。
なかなか感慨深い。

本日のその中でレクチャーをしようということになり午後から会場へ。
私も版画のお手伝いをしている関係でレクチャーパネラーのひとり。
パネラーは他に 安藤郁子さん(陶芸家)、近藤由紀さん(国際芸術センター青森 学芸員)、浜田剛爾さん(国際芸術センター青森 館長)、コーディネーターに山内修さん(青森県立保健大学 非常勤講師)の5名。
1時間半という短い時間内で何か結論や表明を出せるものでもないのだがつらつらと語るパネラー諸氏。

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客席には10数名のお客様。今日も雪が吹雪いている中、新年早々のご参加を感謝申し上げます。
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by aura-21 | 2010-01-10 22:13 | レクチャー
2010年 01月 08日

「夏の雲」

昨年末、美術作家で友人の鎌田さんにお願いしていた本が届いた。
盛岡市在住の漫画家 菅野 修さんの「菅野修作品集 夏の雲」である。
菅野さんは鎌田さんのお友達でもあり、年末には鎌田さんから菅野さんと「夏の雲」を撮った写メが届いた。飲んでいたところだろうか、菅野さんの顔は赤い。
一度はアマゾンに注文していたのだが、在庫がなく入荷の予定もたたないと言われ諦めていた。そこへ鎌田さんからの温情ある情報。アマゾンをキャンセルしてすがりました。

どうもありがとう!
しかもサイン入り。よくみると限定本でした。奥付けには「限定480部のうち」と書かれた枠内に「番外」と赤いボールペン書き。ご無理させたみたいで本当にすみません。

ありがとうございます×480以上、、、でございます。
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by aura-21 | 2010-01-08 15:25
2010年 01月 07日

創作工房展 パリ電話

久しぶりに早く起きた。というか早くに外出した。
今年は元旦ですら昼過ぎ起床だったな。

県美へ。「創作工房 ほ・だあちゃ展」の搬入。
Sさんの自宅を解放しての版画や陶芸の工房。利用者は障害をもった方々ということになる。が、美術と障害との関連を考えると複雑に様々な要素が絡んでくる。社会福祉制度にどこまで頼れるのか私には分かっていない。門外漢である。

アートについて考えてもまた自分は何も社会的なことを省みないまま無頼気取りでイイカゲンサを突っ走るだけのような気持ちでいる。まったく覚悟も理念もないまま、どこにも泣きつけない無計画で不確かなものを支えに踏ん張るしかない自分自身なのだ。家族や周囲の友人に助けられている事には間違いない。そんな自分がまさかここまで障害者のボランティア的活動につきあって手伝いや展覧会準備までやることになろうとは思わなかった、、というのが実感である。
版画を手伝っている関係でこの展示を頼まれた。広い会場に散りばめた作品は作家性とか「展示と作品」とかの概念が落としどころなく頭の中を空転しよぎる。幼い自問自答の数々につまずきながらも作業をすすめる。なんとも言えないものだなぁ、、、と桎梏と諦念。




展示になったのだろうか。
この展示で見せたいものは何だろうか。また誰か何かを勘違いしてしまわないだろうか。純粋に「作品」を見せるにはあまりにも不明確な要素がいくつもついてしまう色眼鏡を通してますます誤解の深淵に落ち嵌らないだろうか。アートとか障害という語彙がまた何か見間違えさせる二重の落とし穴として横たわる。理解を阻むもの。そこへ関わるこちら側の意識は何を顕示させようとしているのか。魅せるものを作るアーティストと同時に障害を持つ者を紹介し並べる。市井の工房で産み落とされる作品がダメだとは言わないが、アート作品として「障害者だから」というゲタを履かせてしまったら評価基準もそこで何かを失効するような気がする。

挟まれて桎梏を感じざるをえない。

17時になっても展示作業は終わらず延長を願い出て結局は18時を少し過ぎて終わる。
県美のコミュニティ・ギャラリーを使った展覧会は明日から11日まで4日間開催。
会期中の10日(日曜日)には13時半よりフォーラム「生活の中のアート」開催。




夕食後にパリに住む作家の佐藤達さんから電話をもらう。
16時頃にも一度電話を頂いたようだが珍しく不在で出られなかった。
70分以上も話していた。自分からかけてはいないが電話代が気になってしまう貧乏性。

今年佐藤さんの実家のある宮城県登米市でアート展開催の予定があり、私が先日参加させてもらった「アート@つちざわ」の状況を参考に聴きたかったそうだ。昨年秋にもそんな電話をもらっていたが、思えばその時に話した内容とさして変わらず追加する要素もない内容だったのだが。
登米市での美術展は作家を選考し依頼する形式のようだ。市側からの予算請求も通過していない段階。その準備資料のために参考意見を聴取している最中なのだそうだ。
計画している第1回展は「幾何学的抽象」をテーマに据えてみたいそうだ。続けば第2回にはアンフォルメルな抽象をテーマに据えたいとも語る。
日本をみると10年おきくらいにめまぐるしく変貌するその時の20代30代の現代美術の表層的潮流にばかりスポットが当たる印象が強いそうだ。これは日本に顕著な傾向ともいえるそうで、還暦を越えて国際的に活動している佐藤さんにはあまり関心は湧かないようだ。作家が毎度変貌するトレンドに押し流されていては作家としての同一性が希薄になる。長い作家活動にとって一時的な時流から外れることにこそ意味があるようだ。
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by aura-21 | 2010-01-07 23:54 | 展覧会
2010年 01月 05日

3秒

書店の棚を徘徊。
「3秒で(顔相から)人を見抜く」というタイトルの本が平積みしてある。
、、、、そうかぁ、3秒で見抜かれるんだぁ〜。
だんだん会話は無用になるねぇ
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by aura-21 | 2010-01-05 16:22
2010年 01月 04日

キャンプ 家族

雪。正月気分も萎える。

妹は今日の夕方でまた東京に帰る。もう彼女の日常はここにはない。
うまくその地で生き抜いて欲しいものだ。そうしなければいけない。
住んで日常を送るその都市にしっかりとした「居場所」を見つけれるかどうか。


居場所とはなんだろう。
その地で生きる事の意味はなんだろう、と思う。
例えば2〜3ヶ月の期間限定レジデンスは滞在というよりは観光であり視察で、あえて言えば「キャンプ」である。何もない場所に突然移動してその地に駐留する軍のキャンプに等しく思う。居場所や日常をその地から吸収するのは1年2年と住民票を移して住んでみなければ解らないことも多い。




さて、青森にある私の日常は帰る妹を交えて「回転寿し」へ行くことか。
その後一緒に養護ホームにいる90歳を過ぎた伯母を見舞う。
帰宅せず汽車の時間までお茶。
16時を過ぎると暗くなる。駅で妹だけ落として車を走らせ帰る。ホームまでの見送りもしない。駅前の普請中な状態だけが理由ではなく、もう改札やホームや車内にまで行って別れを惜しむ程には家族の感覚もクールになってきてるのだと思う。
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by aura-21 | 2010-01-04 23:41 | 雑感
2010年 01月 01日

新年

明けまして
おめでとう
ございます

本年もどうぞよろしくお願いします



未だに年賀状を書いていません
書くかどうかも、、まだ、、ちょっと、、、、(^^!)
すみません、、、、。
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by aura-21 | 2010-01-01 20:04