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AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2010年 06月 20日

陸奥新報 のれそれカッフェ その6

「夭折のお知らせ」



 20歳の頃は密かに夭折に憧れていました。学生時代というのは自分が表現したいものが何かも分からぬままに制作にしがみついているような日々です。その時の原動力に注がれる数滴の潤滑剤のように夭折の魅力は影を落とします。自分ならではの表現と言える仕事と早く出逢って自分だけのものにしたかったのかもしれません。自分のものと出逢うとは自分とは何者かということと同等に考えていました。
 夭折という語は若くして亡くなることです。しかし一般的には早熟した才能の死を意味しています。独自なことをやり終えて「はい、さようなら」というニヒリズムやヒロイズムは若者の憧憬に違いありません。
 何歳頃までがこの夭折に当たるのでしょうか。ある作家は「表現者にとってそれが何歳であってもその死は夭折といえます」と語りました。作家ならば幾つになっても「明日こそはそれをえぐるように掴みとりたい」と願うでしょう。次々に生まれる表現欲求との格闘です。そんな仕事なかばでの死は若者の死と同じくらいに志なかばであるということでしょう。
 自分は既に中途半端に齢を重ねてもう夭折という響きからも遠いところにいます。夭折にはそれ相応の才能が必要です。夭折するには天才である事が必要条件であることに気がつくほどに自分には才能なんて到底ないことを思いしらされます。年齢とその拙い仕事ぶりとを見比べてジワジワと染み込むように納得させられ説伏せられていきます。つくづくといまいましいものです。
 自分というものを確認できる実感をもった仕事は未だに見えません。
 今の自分よりも若くしてまさに夭折していった多くの作家の存在を知るほどに、五十年の馬齢を重ねてふと気づく残酷さ無念さばかりが我が身にまとわりつきます。そして今の自分よりもずっと年上で亡くなったと思っていた幾多の作家が、実は今の自分よりも遥かに若くして亡くなっていた事実に出合う度に驚愕します。そして人生を思います。昔の人の早熟度はその時代の平均寿命から逆算してもただただ恐縮するばかりです。あぁ、、、、
 未練がましくもいつの日にかそうなりたいと夭折を夢見て願っている平凡な表現者がここにいます。
 幾多の夭折した先人たちへ哀悼の意を表します。羨望の想いを抱えながら。

陸奥新報「のれそれカッフェ」掲載)

by aura-21 | 2010-06-20 15:14 | 雑感


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