2002年 08月 31日
国際芸術センター青森 「Zeit - 高い摩擦熱」展を見る。 青森市在住作家を中心とした美術グループZeit。15時から開催のアーティストによる「トーク・セッション」のすこし前に到着。作品量は作家ごとにボリュームの差はあるものの、参加作家の多くはこの空間を各自念頭に置いて出品展示したのだろう…という印象。それはこの天上高や彎曲した空間というものが各作家あるいはこのグループにとってクリアーしたい問題として受けとめられた事を示していると思う。 15時から展示順に従って作家が自作について語る。作品に付いて語る時に自分のモチベーションを主点に話すことは確かに重要なポイントだろうが、ついついその説明のために「美術」という前提がずれて伝わることがある。ある作家の作品テーマが「病」「告知」「死」というような重い問題の場合、オーディエンスは作品そのものよりもそのテーマ性に話題が流されてしまう。まだまだ表現のきっかけになった「テーマ」の受取られ方・論点と作品そのものの関係が作家という交点で両輪のようには進まない状況があるようだ。テーマやモチベーションと実作品の関係を語る時、「美術作品」の成り立ち・生まれ方が理解されにくいということかもしれない。また、作家がそのモチベーションを語ると(内容や質はさておき)作品として「肯定」されてしまったかのような空気は気をつけないといけない。 参加作家の世代(年令)というのは意味を持つ。日本では良きにつけ悪しきにつけ「流行」ということが幅を利かす。トレンドを無心に追い求め、トレンドに乗り遅れまいとすることが「現代」である証のように思われている。世代によってはいつまでも「トレンド」に振り回されるよりも「自分の立つ位置・視点」を大切にする意識が発生するだろう。「Zeit」の各作品を観たかぎりでは妙な最新流行・トレンドには関係なく見える(或いは何が動向か認識できない?)。それが各自の問題と邪魔されず向き合える要因になっているかもしれない。但し、少し俯瞰した場合には、いわゆる日本における「現代美術」の流れを20年くらいの遅れで追従(追復)しているような視点・印象もないわけではない。 地方における「現代美術」って何?…ということかもしれない。 参加作家が自作品について語ることの意味は大きい。 作家本人の姿や言葉がそこに在ることでその作品に対する観覧者の見え方や理解度は変わる。残念ながら今回このトークに集えなかった作家の作品は解説も放っておかれ宙に浮いた感じである。その言葉や姿がこの場限りの幻想に過ぎないとしても今日観に来たオーディエンスにとっては理解するきっかけとなって伝わることがあるのではないか。 それは作品の出来不出来とは直結しないこと(…私の実感では一部直結してしまっている観が強い)だと思う。 このグループ展は国際芸術センター青森を会場として利用した地元作家による初めての展覧会である。県外・海外からのレジデンス作家の関わりも重要だが同じ程に地元作家とセンターの姿勢も見落とせないこと。今後の関係性が地方の作家の創造にどのように影響や関連性がうまれるのだろうか。 作家の動きとそれをサポートするセンターやオーディエンスの足並みこそ、これからこの地で産まれる美術のための肥沃なる土壌になるだろう。そのきっかけとして静観したい。 トーク終了後、原沢康明氏による即興演奏。 地元の学校で音楽を教えながら作曲活動もされている方。 会場に並ぶ作品ごとに題名を読み上げてからその作品イメージを演奏する。 20点以上もの作品に向かい優しく激しく鍵盤を弾く。使われたグランド・ピアノはこのセンター所有のスタンウェイである。屈指の名器ながらこの空間は残響が強いため活かされず残念である。 原沢氏も演奏前の注意事項として 「これがピアノであるとは思わないでほしい。なにか別な楽器だと思ってほしい」 と前置きしてから演奏された。 名機が活かされにくい空間の問題。 ■
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by aura-21
| 2002-08-31 23:45
| 展覧会
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