AURA版画工房 日誌部 「むげたほげ」

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2008年 08月 10日

暮しの中の美

今日も快晴。

午後から久しぶりに青森県立美術館へ。
コミュニティーギャラリーで地元インテリアコーディネーター倶楽部協力による実行委員会主催のギャラリー無境 塚田晴可氏による講演会を聴く。
コミュニティギャラリーの右側の部屋を使って周囲には氏のコレクションを展示しての講演会。

「暮しの中の美へのまなざし」と題しての講演会は日常のしつらえや具体例でのお話かと思って伺ったが、この非日常の真っ白い美術館の壁面の中では普段の生活感とは異なってむしろ並べられた作品がより美しく引き立って見えたかもしれない。美しさを発見し視線を送るのであるからそれは正鵠であるが、雰囲気的にすこし敷居が高くなってしまったかな。
もちろん氏の慧眼を介して選ばれた作品の美。現代の陶芸家の作品や写真の軸も並列されているが、アフリカの藍染めの貫頭着、魯山人の書軸、酒器、紀元前のインドのこぶ牛の土偶、ガンダーラの仏頭や日本の神像、アフリカの木製壷、ロベール・クートラス作の「カルト」(古いカードのような古色が付くが1985年に55歳で亡くなった作家の作品。個人的に魅力を感じた。)など、骨董というよりも「古美術」から現代の美術と多岐にわたる。(「現代の美術」をどこまでどう捉えるかでその包囲網は違ってくるのだが、、、)
ここでは小品が主である。手技かある種の精神性が内包されたものが多くあった。現代の美術作品は直接手をくださないレディーメードであってもそのコンセプトやシチュエーションの体験性が作品の主眼であったりする。時に巨大プロジェクトが現代美術の代名詞だったりもする。そうした現代性までから推すと今回のものはサイズ的にも小さめで掌中に内包できるもの・使えるものとしたことで、押し付けがましい理念などという大げさなものではなく掌と眼で愛玩できる要素が美に接し至れる手っ取り早さであり、所有することでの美との付き合い方が必然的にその先にあることは否めない。
個人的にはそういう美も好きなので決して嫌な感じではない。むしろ「現代美術」の薄い軽さや頭脳や理念の優先性がやたら鼻につく作品を前にして途方に暮れる時もないではない。
時代を越えてあるもの。そこに「美」という不思議な何かが介在した実在視できた瞬間から我が身も心も突き動かされ憑依され翻弄される個人的な幸福感と哀れさ。美に説得されるか説伏せるか。対峙する美は多くの場合にはもの静かで「あなたまかせ」を装い包み込むような語り口で我々の眼の前にあるが時にしたたかで挑戦的である、、、
「美」とは往々にしてそういうものではないだろうか。

さて「無境」とは何ものにも囚われない姿勢を指しているという。現代・古代にも有名・無名にも関係なく振り回されず、時代を超えてそこに「美」の宿りを感じた自分を信じることなのだろう。

しかし今、突然にガンダーラの仏頭や魯山人の酒器に恋いこがれても手にする事は容易に出来ない。所詮は「高嶺の花」と指をくわえてしまうか、或はそれを所有するための人生サクセスストーリーの主役になるか、現在のままで手が届く美を見つけてそれで代用しちょっと拗ねてみるか、、の様態が眼に浮かぶ。多くの場合は自分が所有できる「美」を探し見つけるのではないだろうか。それとても「美」への感心と行動力を持った人の話だが。値段というのも人それぞれで価値観が違うので、それが数千円の話なのか数百万円の話なのか、高いか安いかもまた別な話だろう。思うのは、多くの次世代が自分たちの文化として新たな「美」、手に出来る「美」を見つけた時に、これら古美術はその使命をどこに見いだすのだろうか、ということだ。最高地点に居て「ここまでおいで」と、飽くなき美の追求者の目標地点に居続けるための教義・教え・知識・文脈は、どうしても付与され流布する必要を感じる。美がいくら直感の世界とはいえ、存続するための「直感を補完する能力」は2次的に要求されるのではないだろうか、、、。その先にインテリアや家空間があるのではないだろうか。いざ所有した「美」をどう自宅の一角に祀るのか、、である。そのための造作もセンスであり、所有者(一時的管理者)に要求される資質かもしれない。魯山人の書を掛けるにはそうあるべき壁が用意されていてほしい。そこまでして「美」の虜囚だるべき特権が与えられるのではないだろうか?
、、と、、、ここまで、ただ個人的思考だけが暴走して書き過ぎてしまった。
ブログという我田引水の勝手なしゃべり口をお許し願いたい。

講演会は前半のモノローグと後半のダイアローグから質疑応答の構成となっていたが、いまひとつ具体的なエピソードなどが欲しい気がして物足りなかった。聴衆が多くて講演会としてはまずまずだったのかもしれないが、パワーポイントなどの多用でもっと画像をみせながらのトークの方がこの人数には向いていたのではないだろうか。「美」の伝導や精神を語るということで言えば、5〜6人で気軽に、ある作品を肴に”あーだこーだ”いう話の輪の方が参加してても精神にもっとダイレクトに「美」が沁みこむように思うのだが、、どうだろう。

自分とは違った他人の見え方、受け取り方、扱い方、感じ方を話し出し合うことで見つけられる「美」、気付かされる「美」、「美」へのアポローチ方法というものがある。まだまだ偏った先入観で世界をみていた時に先輩や先生の静かな語り口の中に「美」を見つける極意のようなもの、感じとるセンスのようなもののヒントを多く教えられた学生時代が私にもあった。今でもそうした心打ち解けた人たちと会ってartについて話す時に、自分にないものをたくさん気付かされている。それは双方向に存在するものだと思う。
「無境」とはこうした自分と他者との間を隔てる境の無いことも意味されているように思う。
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by aura-21 | 2008-08-10 23:50 | ART


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